1995年2月8日水曜日

緊急報告!! 阪神大震災救援ボランティア(KOBE RELIEF)

東北関東大震災から明日で1ヶ月。全く先が見えてこない中、阪神淡路大震災(1995年1月17日発生)のときはどうしていたんだろう、と思って捜してみたら当時書いたものを見つけた。

当時私は日本の製薬会社に勤務し、その会社の企業内労働組合(組合員1300人)の非専従(仕事と兼任)の中央執行委員長をしていた。地震当日は休暇でハワイにいたが、帰国後すぐに支援活動を模索し始め、28日には余震の続く中、現地でボランティア活動を始めた。陸路はまだ確保されておらず、メリケン波止場から現地に入った。

以下は、その労働組合の2月8日付の機関紙に投稿した報告書である。当時、ボランティアという概念そのものがまだ新しく、このような広報活動が必要だったのだろう。


大型輸送ヘリが風を切るブワン・ブワン・ブワンという低音の響きは、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の幻想的なシーンを思い起こさせるが、今この自衛隊のヘリコプターは、兵隊や武器ではなく、パンやおにぎりを運んでいる。

28日、29日の2日間、連合兵庫の求めに応じて、当労組から第一陣2名(中央執行委員長(注:私)、書記長)が阪神大震災のボランティア(1泊2日)に参加し、被災者の方々の食糧の確保のための作業を行ってきたので報告する。

第二陣は、2月6日、7日の2日間、24時間体制で避難所で生活されている方々のお世話をするため被災地入りする。

<1月28日> 早朝自宅を出発/JRと地下鉄を乗り継いで大阪港(天保山)に集合(8時)/高速艇で神戸港へ(約1時間)/メリケン波止場から徒歩で東遊園地へ/神戸市の職員から指示を受け、トラックの荷台に乗って王子陸上競技場へ(渋滞のため11時到着)/日没まで作業(交代で昼食・休憩)/作業終了後トラックで連合兵庫へ移動/会議室で各自夕食(注:食事は各自持参)/就寝(毛布4枚支給)。

<1月29日> 各自朝食/8時、徒歩で王子陸上競技場へ移動(早足で1時間強、トラックの荷台が恋しい)/到着後5時まで作業(交代で昼食・休憩)/JRの代替バスで芦屋へ(約1時間30分)/芦屋からJRで帰宅(8時)。

組織として個人として いま何をすべきか ...

今回の災害を第二次世界大戦の空襲と比較する人も多い。確かに被害状況そのものは似ているかもしれないが、戦争中の人々の空襲に対する認識と、日本全国の『今回被害を受けていない人』が阪神大震災をどう捉えたかは全く違うものだと思う。

阪神大震災の映像と記事は有り余るほどある。しかし、5000人以上が死亡し、30万人が今も避難生活を余儀なくされているという事実に対して、私たちの想像力はあまりにも貧弱だ。私たちは、テレビや新聞を通じて、自分には直接被害のおよばない不幸を鑑賞することに慣れてしまっているのではないか。湾岸戦争もエイズも同じことだ。

日本という国が被った歴史的大災害を目の前にして、企業が労働組合が、そして一人ひとりの個人が各々の認識力に基づいてどう行動するか、今まさに問われようとしている。

我々が自らを『Human Union』と呼ぶようになってから、エイズに取り組み、また手話や障害者のスポーツ・ボランティアに取り組んできた。そして、いま、労組が本部をおく京都から僅か数十キロのことろに歴史的な大災害の被災地があり、数十万人もの被災者の方々が長期的な避難生活を余儀なくされている。この状況下、我々が求める『ゆとり・ゆたかさ』(注:当時の連合のスローガンだったのではないかと思う)とは何か、いま一度よく考えてみてほしい。組織として、個人として、いま何をすべきか、また何ができるのか、いま一度よく考えてみてほしい。

救援ボランティア 登録受付中

余ったおにぎりが焼かれたとか、ボランティアに行ってもすることがないとか、一部には正確な取材に基づかない心ない報道も見られる。

しかし、よく考えてみてほしい。

十分な情報のない中で、避難者の方々に行き渡るだけのおにぎりを届けようとすれば、余分に送るしか方法がない。当たり前ではないか。余った食糧は処分せざるを得ない。

また、ボランティアが十分に組織できていない現状があり、ボランティアへの需要も刻々変化する。ボランティアに対する需要と供給にはばらつきが生じる。

送られた衣類が山積みで放置されているとの報道もある。しかし、状況をよく見てほしい。衣類が余っているのではない。仕分けする人手がないのだ。

ボランティアは企業の生産ラインのように最適化できるものではない。今しばらく、人的にも物質的にも多少の無駄は受け入れなければならない。

阪神大震災への対応は明らかに長期戦になる。木目細かい活動にはボランティアの参画が不可欠。事態を正確に認識し、可能な範囲で手を差し伸べてほしい。

体力と気力のボランティア作業

組織化されていない集団に複雑なことはできない。私が担当した作業もいたって単純、ただ体力と根気だけが求められる。

自衛隊の大型輸送ヘリで大量の食糧が到着(写真1)。ボランティアと自衛隊が共同で食糧を搬出し(写真2)、台車で競技場の400mトラックの反対側に移動。約5分毎に飛来する小型ヘリに搬入(写真3)。

プロペラを回転させたままの作業で、危険といえばかなり危険な作業であった。

以上が私の担当した作業だが、救援物資を積んだ小型ヘリは、さらに中央区の東遊園地など被災各区に飛び、もう一度トラックに移し替えて(写真4)被災者の方々のもとへと届けられる。

渾然一体となって

阪神大震災の救援活動には本当にさまざまな人・ものが動員され、渾然一体となって機能し始めている。

私(写真5)が参加した食糧確保にも自衛隊員、レスキュー隊員、学生のボランティア、企業や労働組合が支援するボランティアなどが関与。外見はバラバラだが、全員一つの目的のために黙々と働いていた。

また、飛来する小型ヘリも各都道府県の消防局、海上保安庁、民間ヘリコプター会社、企業所有のものなど色とりどり。

調整機能が麻痺しているとの報道もあるが、それは現状として受け止めるとして、さまざまのチャンネルを通じて莫大なエネルギーがここに結集されつつあることは確かだ。

避難所を疑似体験して

宿泊は中央区にある連合兵庫の会議室で雑魚寝。電気以外のライフラインは断たれたままで、暖房なし、辛うじて水洗トイレが一部使用可(ただし、水は他の連合ボランティアが屋上タンクに運び上げてくれたもの)という状況。幸い電気ポットの差し入れがあったので、持参した水で暖かいカップラーメンを食べることができたが、それ以外は冷たいおにぎりや缶詰で食事。

スペースは一人毛布一枚分。結構広いように思われるかもしれないが、全くの他人とこれだけの距離で『生活する』のは一泊でも苦痛がある。また、当日も余震があり、思わずヘルメットを枕元へ。考えて見れば、ここは中央区、被災地の真中ではないか。毛布は一人4枚支給。当初、宿泊所に布団が用意されているとの情報を得ていたのでシュラフは持参しなかった。夜中から早朝にかけてその寒いこと、寒いこと。非常時の情報に確実はない。

本当に避難所生活者の方々のご苦労が身にしみた。

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