1995年6月12日月曜日

Buddy in New York - ギブ・アンド・テイク

◇1:1のAIDSボランティア ❒ ギブ・アンド・テイク

◇はじめに
◇1:1のAIDSボランティア
 ❒ バディってなに?
 ❒ 社会の枠組みの隙間
 ❒ 笑顔が見たい
 ❒ 想像力の問題
 ❒ ギブ・アンド・テイク
 ❒ 助けられられる?
 ❒ プライオリティ
 ❒ Do you like to have some help?
◇やさしさの構図/QoF(Quality of Friendship)
 ❒ あなたのそばには?
 ❒ 関係を断たれないこと
 ❒ お互いに気にかけている人
 ❒ ささえてくれるひとのために
◇おわりに(追記)
話は戻っちゃいますけれども、わりとすんなりバディの世界にきて、そして現実に始めますよね。そこで予想外だったというか、想像越えたなっていうものありましたか?

みどり:最初から想像するも何も、どういうものかも分からなかったんで....。
 あまり想像を越えたっていうことはなかったですけど、お互いの信頼関係を築き上げていくのって難しいことだなって思いましたね。どこまでオープンにしていいのかとか、分からなかったですし....。
 それはもちろん何回も言ってるようにクライアントとの関係にもよると思うんです。クライアントによっては100%寄りかかっちゃう人もいると思うし、そうなった場合には、ある程度の距離をおかないと自分がまいっちゃいますよね。そういうときには APICHA とかに相談していくんでしょうし、例えば職場の電話番号は教えないとか、そういうケジメってのもつける必要があると思いますけど....。ジョニーの場合には、返って向こうの方が引っ込んじゃってるんで、いくら余分にあげても、あげ過ぎるくらいで大丈夫ってときもありましたね。
 忙しいってことははっきり最初から言ったんです。仕事の内容も言ったし、すごく不規則な生活で、夜遅く帰るときもあるし、ものすごく忙しくなるときもあるし、それから出張でいなくなるときもあるし....。だけどいつでも電話していいんだよ、そのかわり、どうしてもそのとき話ができない状態だったら、はっきり正直に言う。でも、必ず電話かけ直すから。それが、たとえ10時間後であっても、必ず電話かけ直すからって....。

ええ。

みどり:最初は遠慮してましたけど、最近は気が向いたらかけてきます。
 ただ、彼の場合には鬱が激しいんです。すぐ鬱になっちゃうんで、何も連絡がないときってのは、ちょっと要注意なんですよね。

そういうときは、こっちから電話したりとか....?

みどり:ええ、なるべく私の方から電話してます。
 気にかけてほしいんですよね。どっちかというと何かしてくれるのを待ってるっていう部分はありました。それは、わりとアジア系に共通しているところなんですよね。西洋人は、スパニッシュ系もそうだと思うんですけど、してもらって当然、あるいは要求して当然というところがあるんですよね。だから、向こうの方からガンガン電話してきたりとかっていうこともあるらしいんですけど、そういうときには必ず一線引かないと大変なことになっちゃう。だけど、アジア系の人にありがちなのは、何かしてくれるのをただひたすら受け身の状態で待つ。対等な関係なんだから、ギブ・アンド・テイクなんだっていう発想は、なかなか持てないのかもしれませんね。

そのギブ・アンド・テイクの、例えば松本さんからギブというのはなんとなく分かるんですけれども、テイクというのは具体的にどういうものがあるんでしょうか....?

みどり:相手が嬉しいと思ってくれる、笑ってくれる、笑顔返してくれるっていうのはすごく嬉しいですし、やっぱり私のささえになりますし、もっと現実的な意味では、私もこっちに来ていろいろ助けてもらっているわけですよね、有形無形の形で....。それを返すのは、その社会の中で生きている一員として当然のことだと思いますし、また将来助けてもらわなきゃならないことがきっと出てくると思うんです。

社会の中で生きてる、お互い助け合って生きてるという、そこの意識付けっていうんですか、そこがうまいことできるかどうか....。

みどり:ただ、相手から何かを期待するというのは、それはおかしいと思うんですよね。特に、バディのような1対1の関係の中で相手から何かを期待するっていうのは....。

今回松本さんとお話させていただきたいと思ったのは、一つはさっき言った「社会人として」という問題だと、コミュニティという概念の中でお互いにささえ合うとか、そういう概念がある中でエイズがサポートされてるということは去年いろんなところをまわって納得したし、日本の中でそういうコミュニティ基盤がなくなっているということが、エイズに限らず大きな問題になるという意識は持ったんです。ただ、そうすると確かにうまく説明できるんですけれども、「それだけかな?」っていう疑問がずっと残ってたんですよ。
 バディというのは、組織的にサポートするよりもシンプルな形になるし、人間と人間が直接いますから、多分もっと何かあるんじゃないかなって気がしたんです。それは、ギブ・アンド・テイクと言ったときに、まず笑顔の話をしていただいたんですけれども、そういうところをね、実は聞きたいと思って来たんです。

みどり:私自身が寂しいっていうこともあるかもしれませんね。
 一人でニューヨークで生きてて、適当に生きてるっていえば適当に生きてるんですけれども、でも、かなり気は張って生きてますし、ニューヨークってやっぱり寂しいですよね。さっきもちょっと歩いたときに言いましたけど、アメリカ人ってなかなか入り込めない部分が確かにあるんです。友人はいますけど、結局は個人なんですよね。
 で、家族がいない中で、どういうふうにそれをバディと結びつけてるのかよく分からないですけれども、でも、例えば私がジョニーに対していま持ってる気持ちっていうのは、本当に弟みたいな感じですね。

ふーん。なるほどね。

みどり:例えばいま、仕事の面なんかで、ちょっと行き詰まりを感じている部分があって、どうしたらいいのかなって考えるんですけれども、オプションの一つには日本に帰った方がいいのかなっていうのもあります。でも、そのオプションを選択するにあたって一番先に気になるのはジョニーですね。
 いま私が帰るって言ったら、彼は見離された気分になるだろうなって思うし、私もすごく心配ですよね。今せっかく精神的に安定してきている中で、また一から誰かと関係を築き上げて行かなきゃいけないとなると、辛いだろうな....。
 もしかしたらご両親が中国に帰っちゃうかもしれないんですよね。

こちらに来られて30年って言われてましたっけ?

みどり:ええ。義理のお母さんのからだの具合があまりよくないっていうのがあって帰りたい。もう何回かいつ帰るいつ帰るって話は出てて、結局延び延びになってるんですけど、それは彼の中で非常に恐怖なんですよ、取り残されるってのが....。
 ジェネレーション・ギャップはあって、コミュニケーション・ギャップ(※1)もかなりあるんですけれども、それでも家族は家族だし....。
 だから、例えば今すぐ東京あるいは日本で仕事の話が持ち上がって、帰ってこないかって話があっても、おそらくすぐにってことはできないと思います。
 ※1 お父さんは英語が得意でない。義理のお母さんは全く。一方、アメリカで生まれ育ったジョニーは中国語が得意でない。

そこが、さっきも出てたんですけど、友だちと、じゃバディの関係とはどう違うのかっていうときに、どうしても分からないんですよ。友人とはなかなかそこまで密接にはならない面がありますよね。

みどり:もちろん友人がそのバディみたいな役割を果たしている人もいると思いますよ。例えばゲイのコミュニティなんかでは、本当にそういう関係で自然とバディというものが出てきたんだと思います。もともとの始まりはそれですから、そこはお互いに助け合う素地があって....。
 だから友だちなんですよ。友人なんですよ。
 それが違うコミュニティ、例えばアジア系ならアジア系の場合には、そういう密接な関係というのはなかったわけですよね、コミュニティの中で....。むしろ家族がベースだった。

ふーん。

みどり:ゲイは家族がベースじゃないんですよ。友人がベース、あるいは恋人がベースなんですよね。

ふんふんふん。

みどり:で、そのアジア系の家族の中で、文化的な背景もあって、家族はなかなかエイズのことを口にしにくい。まだ偏見があるかもしれないとか....。そういうときに、他人ならばいいかもしれないっていうのはあったかもしれないですね。友だちももしかしたら拒否されちゃうかもしれないし....。
 でも、予め拒否しないことが分かってる人がいて、その人だったら話せる....。

エイズのことを前提に入れちゃってる友人ということですね?

みどり:そうですね。

そのことで何も言う必要がない友人....。なるほど。
 そうすると日本なんか絶対に必要ですよね。

みどり:でも私、日本って、社会は非常に難しいかもしれないですけど、家族はそんなに難しくないと思うんです....。

そうかもしれませんね。

みどり:日本の社会は、確かにそういう違うものをはじき出してしまうところがあって、それを変えるのはなかなか難しいような感じはするんです。でも、家族は意外と受け容れるんじゃないかなあ....。

家族は、ある程度しっかりしたベースとしてあると思いますね。

みどり:それは、すごくすばらしいことだと思うんです。
 アメリカは家族が見捨てましたからね。宗教的なものが背景にあるんですけれども、ゲイというものは受け容れない、価値観として絶対に受け容れられないんです。それは聖書がダメだって言ってますから、エイズよりも何よりも、ゲイであるということで家族は見捨てるんですよね....。

ところで、バディをやっておられるのは何名くらいですか?

みどり:はっきりとは分からないですけど、実際にやってるのはAPICHAで、私が知ってるのは4人ですね。

応募されてるクライアントの方は....?

みどり:最近増えてるって聞きました。だからもっとバディ増やさなければ....。
 少しずつ APICHA 自体の存在も知られるようになれば、「ああ、そういうところがあるのか」って。やっぱりアジア系の人は、アメリカで生まれ育ったアメリカ人であっても、白人のオーガナイゼーションではフィットしないところってあるんですよね。それはもちろん、ラテン系の人たちもそうですし、アフリカ系の人たちもそうですし、だからそれぞれの国の人たちのオーガナイゼーションができていいと思うんです。
 私も、なんで APICHA かっていうと、やっぱりアジア系の中でどこか通じ合うものがあるからだと思います。だから、言葉の問題じゃないんですよ。もちろん言葉もあるんですけど、少なくともお互いにサポートできるところがあると思うし、アジア系っていうのは、自分がいてなんかホッとするところがあるし....。
 例えば、自分のからだの状態でもあまりお医者さんに聞きたがらない。ジョニーにしても、「咳が出るんだけど」って言うから、「お医者さんに聞いた?」って聞くと「No.」って。「じゃ今度行くときに聞いてみたら?」、「OK.」とか言いながら、聞かないんですよね。そういうのって結構何に関してもあって、病院まで一緒に行ったこともあるんです。
 外来で先生の説明を聞いて、私が、「ちょっと待って下さい。これはどういうことなんですか?」って、何も知らないっていうことを前面に出しちゃって質問するとジョニーも安心して、だんだん一緒に質問が出てくるようになるんです。
 その気持ちがすごくよく分かる。私は自分をちょっとプッシュすることができるんで、恥ずかしいのは同じなんですけど、でも「私がちょっとばかな役をやろう」と思って、すごく基本的なところも聞いちゃう。多分こうだろうなと思っても聞いちゃう。そうするとホッとするんですよね。

実際にドクターのところに行くときに同行されて....。

みどり:なかなか時間的にできないんですけど....。

最初のうちにそういうことをやられた?

みどり:いや、最初のうちは無理ですね。結構経ってからです。やっぱり信頼関係ができてからですね。
 例えば、目の方の支援団体があって、そこでいろんな目の、例えば杖の使い方のトレーニングだとか、あとカウンセリングだとかのサービスがあって、やっぱり一緒にサポートをしているまわりの人間としてお互いに連絡が取り合えたらいいなと思ったもので、一度一緒に挨拶に行ってもいいかって聞いたときに、彼は、なんで私が来るのか分からない....。なんか自分のあらさがしをされてるような気分になったみたいですね。それは後で言ってました。
 私の説明不足だったんです。説明したつもりだったんですけどね。

医療機関は嫌がらないんですか、そういうの?

みどり:患者がOKであれば病院側は....。患者の問題ですから。

日本じゃちょっと無理じゃないかな。
 家族の中でも例えば奥さんをとか指定すれば当然同席できるんでしょうけど....。

みどり:それもおかしいですよね。それは患者の問題ですよね。

日本では患者自身にもあまり告知しないっていう問題がありますよね。
 第三者が患者の病状を聞くということに関してはまずダメだと思います。ソーシャル・ワーカーがどれだけ関与してるのかちょっと把握してないですけど....。

みどり:ソーシャル・ワーカーがいて、患者につくってことはないんじゃないですかね。こちらはありますけど。

随分待って1分か2分、3分で終わってるのが現状ですからね。
 医療はこっちのもんだってとこあるんじゃないでしょうか。

みどり:ええ。
 上下関係になっちゃってるんですよね。

そうですね。お医者さんってかなり偉いと思ってますよね。

みどり:本当は対等ですよね。

去年いくつか病院まわりましたけど、こっちは看護婦さんじゃなくて、男性がいるじゃないですか....?

みどり:看護士?

そうそう看護士。だから、誰が医者かってのあんまり分からないんですよね、パッと見。
 それで、アメリカの人って随分しゃべるじゃないですか、廊下とかでグジャグジャって。日本だったら、ドクターと看護婦さんがそんな無駄話してるようなことってないですよね。
 日本なら誰がドクターかってすぐ分かりますよね。

みどり:まあ、こっちもそうかもしれませんけどね。

薬や従来型の医療に加えて、今後はソーシャル・ワークなり、カウンセリングなり、「技術でない部分の医療」というものがあるじゃないですか....。そういうものを全部一緒に考えていかなきゃいけないだろうと思うんです。
 ところがそういうことを議論する場所もなければ、受け入れる団体もない。お医者さんがこっちへ降りてきたって、しんどい思いするだけで、お金は儲からなくなるし、偉くもなくなっちゃうし....。

みどり:ステータスを求めて医者になった人はそうですよね。

病院へ行ったら一緒に質問しようという運動がありますね、日本でも。それがお互い、患者の質も高めるし、医者の質も高める。
 だけど現実は、何か質問したら「この忙しいのに」と嫌われることもあるし、どうしてこの薬がいるんですかと聞きたくても、なかなか説明してもらえない。

みどり:アメリカでは裁判沙汰もありますからね。そういった意味では厳しいですよ。
 父親が死んだときには、腑に落ちない点とかかなりありましたからね。アメリカだったら訴えてもおかしくないんじゃないかって友人からは言われて....。
 検査に行った当日の晩、その手術あとから出血が始まっちゃって。検査に行った当日というのが釈然としないですよね。本当に何も兆候なかったのかな?、何か見落としてたんじゃないかな?っていう。それがすごく腑に落ちない。
 でもまあ、そこは日本人家族ですから、もうそのまま黙って。でも、闘うっていうか、そういうのに挑戦していくのって非常に痛いですよね。辛いですし、自分の傷口をえぐり出すことになるわけですし....。
さっき、何も考えないで生きてるんじゃないかっておっしゃいましたけど、分かりますよ。何も考えないで生きてた方が楽ですもんね。

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